どうでもいい小話。ブスほど本を読め。
今回は本当にどうでもいい小話を一つ。おそらく文章もめちゃくちゃです。人によっては不快な思いをさせるかもしれません。ブスについて語ります。ご了承ください。
アメリカに東海岸にthe strokes/ストロークスというロックバンドがあります。あのレディオヘッドの「ok computer」や「kid a」でインテリ化が突き抜けてしまった感があった当時のロックシーンをファーストアルバムの「Is this it」の衝撃で原点回帰させたバンドです。ストロークス、ホワイトストライプス、リバティーンズ、ヴァインズ、バイブスなどのバンドの登場で、リバイバルムーブメントが巻き起こりました。
ストロークスのメンバーは全員がイケメン、高身長で、富裕層の子息(一人だけ一般家庭出身、でもイケメン)という反則スペックです。MCになると急に自嘲的になって腰が低くなり、そういうところも育ちの良さを隠せないお茶目な感じで。
そんなイケメンたちに、最高にクールでシンプルで都会的なロックを気だるそうにされてしまうと、イギリスが誇る最高のロックスター、リアムギャラガーでさえ「てめーらなんか怖いと思ったことがねーんだよ」と訳わからんガンを飛ばすしかない訳です。あの世界というスープにフォークで戦いを挑むリアムがですよ。
実は、ストロークスの圧倒的な外見は偶然ではなく必然なんですね
代々お金持ちの家に生まれた彼らはお金持ちのおじいさんが美人のおばあさんを口説き、エリートとして生まれたイケメンのお父さんが美人のお母さんを口説くというループに入っているわけです。
ボーカルのジュリアンのお母さんは元モデルでミス デンマークに輝いたこともある美人さんで、ギターのアルバートのお母さんもアルゼンチン人の元モデルで美人コンテスト優勝者だそうです。
所得の差が開く、それが教育にも影響を与え、結婚相手も決めてしまう欧米ではお金持ちは必然的に長身美形高学歴になるようになってるんですね。
ハーバードもケンブリッジも私立大学ですが、日本の東京大学は国立で年間の学費は60万以下です。かつ、シビアな受験戦争を勝ち抜いた人が平等に入学できる受験システムになっています。
そして、新卒採用と終身雇用が根深く良くも悪くも残っているため、在学中は興味の赴くままに好きな分野を勉強できます。哲学を勉強して、銀行員に普通になれるのはおそらく日本だけです。北欧の教育大国と呼ばれるような国々でさえ、歴史や文学の学生は就職が難しいため女の子か金持ちがほとんどだそうです。
バカとブスほど東大に入れとはよく言ったものですね。東大はダメでも比較的偏差値が高い国立大学が最も学費が安いという事実は、貧困家庭の子どもたちに勉強を勧めるのに十分な理由となります。所得と学力の相関関係が指摘されて久しいですが、それはレベルの高い大学ほど貧乏人が少なく授業免除や奨学金が受けやすいということにも繋がります。
そんな素晴らしく平等な学生期間を過ごした日本の学生たちは、勉強していようが遊び呆けていようが、ほとんどの人は民間起業または公務員に就職します。
その中でトップクラスの企業かつ、トップクラスの出世コースに乗った人たちが駐在員としてロンドンやニューヨークに派遣されるわけですが。
欧米は、格差社会かつドライな実力社会で、大学の専門分野で企業のインターンシップを受け、そのまま就職すれば一年目から数千万単位を稼ぐシステムです。日本のように企業に育ててもらった恩や企業が解雇しない情などのウェットな要素が少ないので実力=収入に直結するわけです。そして、終身雇用制度もないのである程度貯えた優秀な人は、40程度で引退し、投資家や資産家の道をのんびり歩むわけです。
実力のある若手とは、ストロークスのループにいるイケメンかつ金持ちの子どもです。
そんな彼らと、格差の小さな社会でトップを走ってきた日本駐在員が同じ高級住宅街に住むことになるのです。するとどうなるのでしょうか。
僕は少しの間、そういう都市に滞在したことがあります。正直に言います。ブスかデブかチビがいたらそれは日本人の駐在員かその家族だと一発でわかります。
そして、駐在員たちも隣のビルで働いている外国人たちは何倍も給料を稼ぎ、大学時代単位を取っていただけの自分と違い教養もあるという現状に耐えきれず、日本人コミュニティに逃げ込み、自分たちのための日系キャバクラを作るのです。
これを言うと、よく「じゃあ外国人になれよ」などと言われますが、僕が言いたいのは日本人がお金を稼いでも意味がないということではありません。
一つは、大学時代に好きなことを勉強して教養を身につけろということてす。
文学や哲学や生物学など、就職に役立たない勉強をしても就職出来るのが日本で、法学や経済学も海外の学生に比べれば圧倒的に楽に卒業できます。他の専門分野を齧る機会はたくさんあるのです。
一流ビジネスマンになっても、旅行や外食、キャバクラやブランドショップしか行くところがない人は多いでしょう。それで大きな顔をして駐在先に乗り込んできたら、白人イケメンエリートの足元にも及ばない。そんな人生から抜け出せるセンスや教養を磨くチャンスが日本の大学生の期間にはたくさん用意されているのです。一流ビジネスマンが教養もあれば最強でしょう。
もう一つは、日本の一流サラリーマンでもそこまで年収が高くない、だから別の楽しみを探せということです。日本の終身雇用や年功序列に守られた労働者たちは、子どもたちにも自分と同じ道を歩ませてきました。しかし、バブル経済の崩壊後は一流企業に入っても褒めてくれる親や評価してくれる上司より生涯年収が低いという状態が続いています。これだけ格差が少ない社会で、エリートレールも20年以上陥没し続けている現在、自分の好きなことを探して生きるという選択肢の価値も上がっているのではないでしょうか。社会の多極化が進んでいるため、インターネットなどを利用して働きながら、自分のしたいことを追求するという生き方も簡単になってきました。
ワークライフバランスという言葉も流行っていますね。
日本の企業戦士たちは社畜と揶揄される現代で、社畜のドッグレースなど嫌になればいつでも降りればいいのです。
バカとブスほど東大にいけ、そしてチビとブスほど大学で本を読め。
この一言にまとめたいと思います。
社会の多極化やテンプレレールの老朽化はいわゆる「意識高い系」が大企業批判としてよく行っているんですが、それも少し違うかなーと思っています。
それは常識の近代と自己選択の現代の問題になるのでまた、機会があれば。
羽鳥橋下の番組 11月28日 チケット転売は悪かについて
羽鳥橋下の番組の11月28日の放送を見ました。
今回は究極の選択というテーマで、刑務所が近所に移転することに賛成か、娘にせがまれるとプレミアチケットの転売も買うか、大事な仕事の日に微熱の若手社員を出社させることはモラハラかの3つの話題について議論されました。
今回、僕が注目したいのはチケット転売についてです。
橋下徹さんは、チケット転売に賛成。安く仕入れて市場の適正価格で高く売ることは資本主義の大原則であるとして、チケット転売には賛成の立場をとりました。
僕も、橋下さんの意見に賛成です。今の転売屋さんは怖そうなイメージがあって嫌いですが、転売そのものはなぜ批判されているのかわかりません。
まず資本主義の考えでいくと、橋下さんの言うとおりで株や証券のように価値のあるものを仕入れて相応の値段で売るのは間違ってないと思います。
さらに言えば、レコードやファッションのセレクトショップなどの小売業も転売ですし、ヴィレッジヴァンガードはその典型でしょう。
また、スーパーよりコンビニの方が便利という付加価値がある分、割高なように、発売日に並ぶ必要がなく確実に入手できるという付加価値が転売チケットにはあります。
需要と供給の点から考えると、売り切れがわかっていれば、キャパシティの大きな箱でする、ライブの日数を増やすなどチケットの在庫を増やすことはいくらでもできます。日本中でスタジアム3days即完のライブバンドが日本にいくつあるのでしょうか。
もちろん、チケットの価格をあげて需要に合わせることもできます。
発売日を早くして需要をコントロールすることも可能でしょう。
ここからは、一人の音楽好きとしての僕の意見です。
はっきり言って、チケット転売は主催者側が防ぐことは出来ます。
例えば、イギリスにグラストンベリーフェスティバルという世界最大規模の夏フェスがあります。約一週間の通し券十数万枚が即完するという世界屈指の人気フェスです。
これ以上、フェスの規模を大きくすることも出来ず、チケットの発売も9ヶ月前で主催者の努力で需要と供給をコントロールすることもこれ以上できません。
しかし、グラストンベリーには顔認証というシステムがあります。チケットに購入者(事前登録必須)の顔写真が印刷されるのです。
これにより、グラストンベリーは転売を抑えるだけでなく9ヶ月も前に、仕事や学校を放り出し一週間イギリスの田舎で過ごす覚悟があり、かつ争奪戦に勝利した幸運な人のみが参加できる最高の空間をつくっています。
メディアや、出演しないアーティスト向けの関係者パスも厳しく、プレミアチケットもvipチケットもない。好きな人だけが来れて、フェスの中では今年は呼ばれなかったアーティストや有名人、金持ちから貧乏人まで全員平等にテントを張って音楽ファンとしてフェスを楽しみます。
日本ではももいろクローバーZが顔認証や当日券販売、不要チケットの公式サポートなどでチケットの価値をコントロールしているようです。
準備をして気合が入っちゃってるのがかっこ悪いという今時の若者にはベルリンにベルクハインという当代最高のクラブがあります。
基本的に入場方法は当日のドアーのみで週末になると長蛇の列が出来ますが、ほとんどの人は入場を拒否されて帰らされます。入れるのは音楽が好きそうな本物のクラバーだけ。それを決めるのはドアマンの独断と偏見です。早く並ぼうが関係ありません。珍しがった観光客やデートのついでのカップル、ナンパ目的の男は論外でまず弾かれます。
ベルクハインはこのシステムで千数百円と格安の入場料で最高の音楽と音楽好きを集めて素晴らしい空間をつくっています。
また、ベルギーにトゥモローランドというEDMの祭典があります。グラストンベリーと並ぶチケット確保が最難関の夏フェスですが、こちらはチケット転売が可能です。世界最高難易度のチケット争奪戦、転売価格は数倍と注目を集めることで自身を宣伝してセルフブランディングすることに成功してます。
参加者は、あの世界最高難易度のチケットをもって世界最大規模のフェスに参加していることが楽しいのです。
このように、その気になって努力すれば仮に転売が合法化して旅行代理店のようなチケット代理店ビジネスが成立しても、主催者はチケットの価格をコントロールすることは出来ます。また、その能力はイベントそのものの質、主催者のこだわりに比例しているとも言えるでしょう。
その努力をしないのはプロモーターの怠慢と感じてしまいます。
チケット規約に転売不可と書くのであれば、自分たちで転売をネットで発見して見せしめに何件か訴訟を起こせばいいのです。それだけで抑止力になるでしょう。
僕がチケット転売言説に感じている怠慢はもう一つあります。
それは、チケット転売反対の方々に対してです。
彼らは転売禁止と書かれたチケット規約、ダフ屋は迷惑防止条例に反していること、古物商の資格や物価統制令などを持ち出し、転売業者による価格の釣り上げや反社会勢力の収入源となっていることを取り上げます。
しかし、現状をどのように解決するかについて全く考えません。
チケット転売が行われているのが現状で被害者を自称するにも関わらずです。
僕は、この問題を解決するには堂々と旅行代理店のようにチケット転売や手配代行が出来る社会になるべきだと考えています。
そうすることで、法的な整備が進み市場価格が維持できるように規制も行われ、利益からは税金も支払われるでしょう。どうしても定価でファンに届けたいアーティストは上記の本人確認のような努力を各自ですればいいのです。転売があろうとなかろうとアーティストは完売すればビジネスとして成功しているのですから、それ以上のこだわりは法律に頼らず自分で努力すべきです。
チケット転売を正常化するために、情報を発信し声を大きくすることで選挙の際に自分たちの声を代弁してくれる候補者を確保する必要があるでしょう。
どうしてもチケット転売に反対するなら今より重い罪として厳罰を与えようという声を大きくすればいいのです。現在の法律に当てはめ転売業者の批判だけ行っても意味はほとんどないでしょう。
今の転売批判の方々は損をしていると自覚がありながらも愚痴を続けるだけで、現状を変えないことに危機感を持たないほど無気力な弱者たちだというのが、正直な印象です。
彼らのせいで転売業界は怖い人たちが独占し、ライブ会場も面白くなくなっているのです。終 12月1日昼
音楽好きなので、少しアツくなってしまいました。僕は、最近はライブに行かずクラブばかりですね。
著作権にも言えることですが、最前線は現場のアーティストやレーベル、出版社などが工夫したり揉めそうになると直接交渉したりと対応して、門外漢の法律家が作る法律はトップのアートの世界ではそこまで重要ではないのではという感覚がなんとなくあります。ではでは。
AKB握手会は恋愛を止めない、クローズアップ現代批判について
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161128-00000008-jct-soci&p=1
クローズアップ現代の話題です。
最近の若者は恋愛を必要と感じておらず、恋愛をめんどくさい、億劫だと感じているという趣旨のNHKの番組。
番組の後半で、「恋愛はめんどくさいとブレーキをかける要因」を挙げたパネルが紹介され、「ストーカー、DV」「セクハラ」「メイドカフェ、漫画」と並んで「AKB握手会」が紹介された。
それに対して、
「AKBを過大評価しすぎ。あんなもんごくごく一部のオタがくらいついてるだけ。しかも若者じゃなくておっさん」
「大半のファンは恋愛できないからアイドルに走るわけで、順序が逆 」
「原因じゃなくて結果だろ。あれは恋愛競争市場から溢れた奴らの擬似救済システム」
などといった指摘がネット掲示板に書き込まれているというニュース。
詳しくは、元記事で。必ず元記事を読む癖は大切だなーと最近思っています。
僕の意見としては、「原因じゃくて結果だろ」がかなり的を得ている、というより全てかなと。でも、その考えでいくと、他の「要因」も結果のものが混ざっているかなとも思います。
「要因」という書き方が良くなかったのではないでしょうか。
僕は少し現代思想や批評に凝っていた時があったこともあってか、番組を見ていてあまり違和感を感じませんでした。
現代思想などは、社会や作品の中などの構造を明らかにするために、表象に注目します。具体的なものから抽象的な考えを抜き出す、社会現象や作品内の出来事から社会や作品の構想や傾向を明らかにするのです。
若者は恋愛に期待せず漫画やオタク文化などの疑似恋愛や断片的なコミュニケーションを望む(漫画、メイド喫茶、AKB握手会)。
これらの表象が起こる理由として、若者は恋愛にネガティヴなイメージがある(恋愛結婚したバブル世代の親が幸せそうじゃ無い、セクハラ、DVが話題になるなど)。
クローズアップ現代は、これをやりたかったのですが、不注意か視聴者のためにわかりやすく噛み砕いたのかして、同じパネルに並列に並べてしまっただけではないでしょうか。
具体例から抽象的な主張を導き出す。世界をモデル化して構造に注目しながら大きな流れで捉える。
このやり方はもはや多極化した現代では古いのかもしれませんね。
具体例の事実確認や重箱の隅が突かれて話が僕も進まないことがあります。
そもそも完璧に適合しないから具体例と呼ぶのであって、それを複数並べて共通項を生み出して不完全性を弱くしたいんですけどね。
めんどくさい事実確認や例外部分の説明ばかりして話が終わってしまうことは多いです。
(飲んでる時の最近の若者は云々論で、80年代とか昔は〇〇で今は〇〇、といえば、それ80年台後半から90年代だよ、みたいな)
再びそもそもですが、多極化してるということは、主張も多極化してるので論理的に破綻してなければ問題がないと思ってます。
どれか一つが正しくて、その通りに生きれば正義の味方って時代でもないと思うんですけどね。
全てが相対的に並列して並べられるインターネットに象徴される現代で名無しは相変わらず近代的だなあと。
親や先生の喜ぶ堅実で常識的な真面目くんを貫いても、親の年収超えない時代なんですけどね。
論理をこねるより、マイルドヤンキー論のような「あるある話」や感情のこもった世間話、常識の同調圧力の陰口の方が好まれるのかもしれませんね。
近代と現代の話はまた今度、考えがまとまれば。若者の断片消費についても。
ただの愚痴でおそらく支離滅裂ですが、徹夜の勢いで投下します。
ではでは。
橋下羽鳥の番組 (11月7日)を見て
遅れましたが、橋下羽鳥の番組の11月7日の放送について感想を書きます。
今回は異端児スペシャルということで、ホリエモンこと堀江貴文さん、2ちゃんねる解説者のひろゆきこと西村博之さん、国際政治学者の三浦瑠麗さんの3人と、橋下羽鳥のお二人、コメンテーターは杉村太蔵さんと森永卓郎さんと葉加瀬マイさん。ちなみに葉加瀬マイさんはほば空気でした。
以下敬称略です。
注目したいのはひろゆきの提言。
「税金の無駄遣いした政治家は逮捕されるべきだ」。非営利の政治資金の運用も、民間のルールに則るべきというもの。
ただ議論はどちらかといえば、無駄遣いとは何なのかについて進みました。
民営化を進めれば無駄遣いを減らせるというホリエモンに対し、地方の採算の取れないインフラなど行政が行うべき事業もあるという森永、杉村のバトルが勃発しました。
ホリエモンは、インフラもバスの定期運行の維持などを条件などに民営化すれば民間の力を積極的に導入すれば、逆に便利になって街が栄える、行政は規制緩和さえすればいいという考え。
これに対し、興味深かったのがひろゆきの意見で、民間は短期でものを見てしまうから民間では絶対作れないもの、行政では絶対できないものがあるという考え。ホリエモンはそういうことも民間のクラウドファンディングで好きな人ばかり集めれば可能だと反論しました。
ひろゆきは例に奈良の大仏やピラミッドをあげていましたが、ぼくもこの考えに(個人的にひろゆきは得意ではないんですがw)賛成でした。
例えば図書館を民営化して、貸し出し数や住民の満足度を工場したいのであれば、村上春樹やハリーポッターなどの新刊が何十人も予約待ちになる人気図書を大量に入荷すればいいだけです。極論を言えばツタヤや紀伊国屋を国で保護すればいいのです。
ただ図書館には生涯学習施設としての役割があり、例えば村上春樹の新刊が発売されると村上春樹の参考書や彼が影響を受けた作品、彼の影響を受けた作家などを利用者が手に取れる環境を整備することで、その自治体の知的レベルの向上に貢献することができます。まあ、実際は図書館のツタヤ化が問題となっているのですが。それは、新卒ポテンシャル採用で、大卒レベルの知識を期待しない社会の問題なのですが、またの機会にします。
小学生の子供の好きな食べ物といえば、ハンバーガーやステーキでしょう。アメリカはそのまま大人になるので死ぬまで多くの人がハンバーガーを食べ続けますが、日本は給食や食の関心が高い国民性もあり成人する頃にはそれなりの味覚が身につく人も多いです。
このように、民間や大衆の流れに任せてしまうとジャンクフード化するものがあり、それを抑止する力として行政の事業は必要なこともあるはずです。
ただ、文学や音楽、芸術やサブカルなどたくさんの分野がある中で、どの分野は税金を投入してまでジャンクフード化を避けるべきであるのか。それは、選挙で有権者が政治家に投票し、彼らが有権者の支持を得て、大衆の声を代弁して決めていくことなのだと思います。
更新時期も遅れ、内容も薄いですが今回は以上です。
では。
本田圭佑というサッカー選手について-ミラニスタの独り言-ACミラン編
ACミランに所属する本田圭佑選手が、2016年10月25日のアウェーのジェノア戦で今シーズン初の先発出場。
しかし散々なパフォーマンスで、現地ファンから酷評を浴びているようです。
僕は、子供の頃からのミラニスタです。
現在20代前半の僕のミラニスタ歴などミランを愛して数十年というおじさま方の足元にも及びませんが、初めて好きになったスポーツチームはACミランでした。そこだけは神様に誓えます。
今回は、僕が大好きなACミランと尊敬する本田圭佑選手について書こうと思います。
二部構成です。
「本田圭佑というサッカー選手について-ミラニスタの独り言-ACミラン編」
僕にとって、ミランの10番はルイコスタです。
CLのレアル戦での、シェフチェンコへ出したあの伝説のスルーパスが僕とミランの出会いでした。
カカが圧倒的な活躍を見せ、自身は出場機会を失い、サッカー紙ではファンタジスタ絶滅論が飛び交う中、試合に出れば優雅なプレーできっちり仕事をし、先輩選手としてカカにアドバイスを送り続けたルイコスタ。
そのカカが移籍先のレアルでは怪我もあり出場機会を失い、現代サッカーに対応した当時の最新型ファンタジスタのエジルがレアルで台頭してきたときは、複雑な気持ちで眺めていました。
2010年代初頭にトップ下不要論が叫ばれた時には、イブラヒモビッチらの2トップの後ろで躍動感あるプレーを見せたボアテングに新しいトップ下の可能性を感じていました。ノチェリーノも良かったですね。
黄金期では、中盤の底からピルロが試合を指揮し、狂犬ガットゥーゾがボールを追いかけ、カウンターを受けた時はアンブロジーニがニクいファールで流れを止める。大一番やシーズン終盤になると、抜群の存在感を示すセードルフ。
もちろんマルディーニは最高のDFだったでしょう。でも、僕にとってミランの最終ラインはネスタのモノでした。
2011年、当時は超絶パスサッカーで攻略不能とも言われたバルサとのCLグループリーグでの対戦。
バルサのパスサッカー攻撃に、セオリー通りにブロック守備を敷いて対応するミラン。ブロック守備ではシャビを中心としたバルサのパスサッカーには対応できますが、メッシにドリブルのスペースを与えてしまうという戦術的に解答不可能の問題がありました。
そこで、当時のアッレグリ監督はネスタに全てを託したのです。パスサッカーはみんなで守る、メッシはネスタがなんとかしてくれる。
ネスタはボロボロの身体を駆使し、最後には必ず脚を出し、百戦錬磨の読みでメッシの突破を幾度となくストップさせました。その日、何度目かのネスタのタックルを受け自嘲的に空を仰いだメッシの顔が印象的で今でもよく覚えています。
そして、バレージからマルディーニ、スタム、ネスタの系譜を継ぐミラン自慢のCB、チアゴシウバが試合終了間際に感動的な同点ゴールを決めるのです。
ズラタンとチアゴシウバが同時にパリへ移籍し、ネスタはMLSへ、ファンボメルに出場機会を奪われたピルロはユーベにいて、インザーギは引退。カッサーノはそんなクラブに愛想をつかし宿敵インテルへ。
そんな時にミランにやってきたのがモントリーボで、クラブに残りチームを鼓舞し続けのがアンブロジーニでした。デシリオのデビューやエルシャーラウィのブレイク、クリスタンテの売却もありましたね。
2012年のボロボロの状態からシーズン終盤の追い上げ、CLではようやくバルサに勝利、2013年にフィオレンティーナに移籍したアンブロジーニが背番号21番をつけて中盤の底でプレーしているのを見た時はおもわずニヤリとしたものです。
ニヤリと言えば、アムステルダムを訪れた時に、飾り窓のピンクのライトに照らされたお姉さんよりも、街角にはられたセードルフのステッカーに口元が緩んだ思い出もあります。
出来事の時系列はかなりグチャグチャになってしまってますが、そんな沢山の思い出があるミランに初めての日本人選手である本田圭佑選手が来た時は、いろいろな感情が渦巻き複雑な気持ちでした。
もちろんミランは大好きです。
本田圭佑選手も尊敬しています。
日本人離れした自信や結果主義、ピッチの上でのプレーの意識も、日本サッカー的な技術も高校サッカーの経験も。
彼ほど、ピッチの上でも外でも自分が何をしているのかを把握して、次にどう行動すればいいのかを考え抜いているサッカー選手を他に知りません。
ただ、そんな本田圭佑選手がミランでプレーすることに、どうしても違和感を感じてしまう僕があの時いたのです。本田デビュー戦のために日本中からミラニスタが集まった阿佐ヶ谷のスポーツバーに。
本田圭佑はミランのレベルではない、レベルにあったとしても本田のプレースタイルはミランに合わない、などの典型的な頭の固い古参ファンの意見にも僕は違和感を感じていました。
財政難による選手の質の低下や、ついてこない成績とサポーター。当時のミランが過去10年以上のなかで屈指の苦難の中にあったことも影響していたのかもしれません。
ただ、現在でも僕はこの違和感の正体を掴めずにいます。 一部終
次は、ようやく本田圭佑選手について書こうと思います。
ではでは。
おやすみなさい。
10月27日、明け方。
最近の若者の学問研究方 -Ciniiの可能性- 第1章
続けての更新です。
一夜明けて読み直してみると、Spotify論が我ながらあまり面白くなかったので。
一応まだ大学生なので、今回は最近の学生の研究の可能性を書いてみようかなっと思います。
これも、最近の若者は論的なやつですね。
最近の若者はネットの薄っぺらい知識ばかり信じる。
便利な情報社会なのにまともな専門知識を学ぼうとしない。
などなど色々言われていますが、ググったらなんでも出てくる時代であることは間違いないと思ってます。
国立情報学研究所の展開するCiniiという論文検索データベースをつかって、簡単に論文を見つけることができる時代。
今の学生と教授たちの時代では、どんな風に研究環境が変わっているのか、自分の考えを書いてみます。
三部構成の一部、まずはインターネットが当たり前の学生の頭の構造について。
文献検索がメインの人文科学学生としての意見です。
「最近の若者の学問研究方 -Ciniiの可能性-」
一章 ネットバカ
2016年10月26日 夕方の終わり
「ネットバカ」という本がある。ニコラス・G・カーというアメリカの著述家が2010年に刊行した本だ。
内容としては、最近の若者は知らない言葉があればすぐにスマホでググることができる。それに慣れすぎて、長い一冊の本を読むことができない、という旨である。
例えば、「CiNii」という単語をあなたは知らなかったとする。あなたはすぐにポケットからスマホを取り出して「CiNii」と検索するだろう。そして、その言葉の意味を知り、その言葉について知っているつもりになる。
グーグルがなければ、あなたは図書館に行って「CiNii」について調べ、専門書を見つけなければいけなくなる。おそらく図書館情報学かなんかの分野になるだろう。
そして数百ページの専門書を読みその言葉の意味を知る。このとき、あなたは言葉の意味だけでなく、図書館情報学において「CiNii」の存在にどういう意義があるのか体系だった知識の一部として「CiNii」を捉えることができる。
インスタントにググるだけでは意味の情報は入手できても、体系だった知識は入手できない。
また、このインスタント検索に慣れてしまった若者の脳は、本を一冊読むことができない。
周りくどい表現や論理を理解する労力に耐え切れず、本に出てくる用語や概念の断片をググってなんとなくわかった気になって満足してしまうのだ。
僕はそれなりに本を読む方だけれど、kindleやPDFの論文はあまり進んで読めない。集中できないのだ。
一方で、父親がiPadのkindleで専門書をサクサク読んでいるのを見て、倒錯したジェネレーションギャップを感じていたのだけれど、ネットバカを読んで原因がわかった。
僕もかなりグーグルに慣れすぎているのだ。紙の本を読むことはできるけど、グーグルにアクセス出来るデジタルデバイスのディスプレイ上で本を読むことが出来ないのだ。
周りくどい表現や論理に耐えながら紙のページはワクワクしながらめくっていけるけど、ディスプレイの前になると我慢できずグーグルで検索したくなってしまう。
頭の中でグーグルがチラついて目の前の周りくどい文字の羅列に集中できない。
そんな反射反応をしてしまうのだ。
それは仮にオフライン環境だとしても当てはまるだろう。
ディスプレイ=グーグルという関係が脳内に染み付いてしまっているのだ。
このような若者たちは、固有名詞や、概念や用語などの意味を調べて情報を集積することは得意だけれど、それらで体系だった知識を構築することは苦手である。
高校までの詰め込み教育や、知ってるか知らないかのマウンティングは出来る。
でも、それらを叩き台にして、研究に取り組み新たなことを明らかにしたり、自分の論理を組み立てて面白いことを言ったりは出来ないのだ。
知識量と国籍や学歴など団体への所属が全ての2chのネトウヨたちは、自分の考えをもった一個人になれず、小市民から抜け出せないのだ。
こんな僕たちの世代に、大学の学問の世界で親や教授たちのアナログ世代を乗り越える方法はあるのだろうか。
それとも、大学の学問そのものがおっさんたち向けのコンテンツなのだろうか。
一章終
大学で威張ってるおっさん教授世代って、大学で勉強せずに新卒採用に乗っかっても景気良くていい時代だったんですよね。
っていうのはまたの機会に。
ではでは
最近の音楽は・・・論に対して -Spotifyからみる現代音楽メディアのありかた-
こんにちは、久々です。
今日は、ぼっちライフを支える音楽について書こうと思います。
CDが売れないと言われるようになって久しいですね。AKBの握手券商法やアイドルブーム、二次元の架空バンドの音源デビュー、ボカロブーム、相変わらずのジャニーズ人気などでヒットチャートは上記のような音楽がほとんどな現状です。
それでちょっと音楽に詳しい高校の軽音部や、ちょっと尖った女の子、ちょっと頭いいマイルドヤンキーたちがご機嫌斜めになっております。
「最近の音楽はつまらない。CDはオタク向けの商品じゃない。実力がある人たちだけのチャートを作って欲しい」などとのたまわっておられるわけです。
まあ、毎日リバティーンズとオアシスを聴きながら寝不足の頭痛を抱え、ちょっと長めの電車通学のなか憂鬱な思いで駅への階段を上っていた経験のある僕にも個人的にも色々と思うことがありまして。(夜中に泣きながらジェームスブレイクや10ccを聴いていました)
9月末からSpotifyという素晴らしいサービスがついに日本で展開され始めたましたね。
それもきっかけの言い訳として、細々と恐る恐る自分の考えを書いてみようかなあと思いました。
「最近の音楽は・・・論に対して -Spotifyからみる現代音楽メディアのありかた-」2016年10月26日明朝
僕は最近の日本の音楽をあまり聴かないのでSpotifyでそれらがどのように扱われているのかわからない。しかし、EUやアメリカを中心としたいわゆる洋楽はほぼ全てのレーベルからSpotifyは許可とっていてSpotifyの上で聴くことができる。
違法ダウンロードでもコピーでもなくきちんと再生回数に応じてSpotify全体の広告の売り上げからアーティストにお金が入るシステムが成立している。
海外に住んでいた時、Spotifyでかっこいいバンドを発見し、Spotifyのインターフェースに表示されるライブ予定をみて近場のライブ現場に実際に行ってみたら、観客20人ほどしかいなかったという経験もある。そんなローカルバンドまでSpotifyは網羅しているのだ。
トムヨークのような何らかの思想や理由がある例外を除けば、Spotifyで音源配信をしていないアーティストはほぼいないと言っていい。
流通に乗らないクラブミュージックをはじめとした自己満足型の音楽やってる人たちも、発信する意思があれば、SoundCloudなどで自身の音源やその日のDJのセットを発信してる。
ロックのライブ動画のようにアーティストのとっておきのセットを見て、クラブにいるような疑似体験を欲するのであれば、YouTube上で展開されているboiler roomやdommune、mixmagなどの幅広いクラブミュージックのプレイを公開するプロジェクトを利用すればいい。
音楽を聴きたくて音源を買ってアーティストにお金を払う時代ではないのだ。
CDのような小売の音源メディアがアーティストとリスナーの媒体ではなく、ウェブ上の音楽公開サービスが媒体になってる時代である。
サービス展開してる企業にお金を払うこともあるが、ほとんどのサービスは広告で利益を生み出してるためお金を払う必要ない。この時、音楽作品たちは、商品ではなく広告のために人を集めるためのものであり、音楽作品そのものが利益を生み出すメディアになってるということもできる。
となると、CDなどの音楽メディアを買う理由は作品やアーティストへの所有欲となる。
音質にこだわるという人もいるだろう。しかし、CDプレイヤーをわざわざ持ち歩くか、自分の部屋にアンプまでこだわったオーディオシステムを持ちCDで聴いている人など少数だろう。
なにより彼らが本当に音質にこだわるのであればCDではなくハイレゾという革新的な規格が用意されている。
MP3という音質悪化の圧縮を宿命とする規格を音源とし、iPhoneやiPod、ウォークマンなどのポータブル機器に内蔵された子供騙しのちゃちなdacやアンプで音楽が再生される環境ではCD音源を手元に持つことに拘る意味もほとんどないと言っていいだろう。
Spotifyで聴くことができるのに、ハイレゾで高音質の音源が用意されているのに、わざわざ小売の音源にお金を払う人たち、彼らがタワーレコードやhmvや中古レコードショップに通う理由は主に一つである。(DJをしていたり、CDありきの自慢のサウンドシステムを持っていたり、これだけデータベースが充実してもまだハイレゾ化していないニッチなアーティストの音源を求めているなら別だが。)
物欲つまりは所有欲。彼らは買い物がしたいのである。
その場合、買う商品としてCDよりもレコードの方が物欲がくすぐられ、コレクションとしても優秀である。またハイレゾはCDよりも高音質という謳い文句を掲げているが、レコードの音の温かみや厚みは、レコードがハイレゾと音源として差別されることを助けている。
最近ではレコードプレイヤーが奏でる音をハイレゾとして録音する機器まで登場している。
近年のレコード市場が再加熱した背景にはこのような事情があったのである。
CDは、その音源メディアとしてのスペックの限界と小売するものとしてのハード商品の性質から、現代の音楽産業では不要なものとなりつつある。
CDの売り上げランキング(もはやそんなものに意味などないと思っているが)の上位を占めるのは、商品として付加価値をつけたAKBグループ、子供と大人という前世代的消費者を対象とし中間層の現代を生きる若者を対象としないジャニーズなどのアイドルグループ、二次創作や名もなきアマチュアの姿勢からの創造物としての可能性を広げる挑戦を続けるボカロ、地下アイドル、二次元系グループなどである。
彼らは、若者と音楽を通して繋がるためにCDを用いているのではない。
あくまで、自分たちのグッズの一つなのである。
CDが売れないことと、最近のヒットチャートの質への極私的かつ主観的な感覚を安直に結びつける意見がネットでもリアルでも散見される。
CDが売れなくなったので音楽の質は下がり音楽はつまらなくなったと彼らは決め付けている。しかし、その意見は、あまりにも安直すぎるのではないかというのが僕の考えである。 終
現在の音楽の質が高いのか低いのか話はまたの機会にしたいと思います。
Huluの会員だけれどもCDやHuluにないDVDを借りにツタヤに行ってるロックンローラーたちは、HuluよりもSpotifyの会員になった方がいいんじゃないかな。
Huluにない映像がTSUTAYAにあることはあっても、Spotifyにない音源がTSUTAYAにあることはほぼないから。いわゆる洋楽での話だけれど。
久々の更新でした。
おやすみなさい。