セカイと僕の相性は

Botches, Be Ambitious. 一人でコソコソとマシな生き方を考えてます。

AKB握手会は恋愛を止めない、クローズアップ現代批判について

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161128-00000008-jct-soci&p=1

 

クローズアップ現代の話題です。

 最近の若者は恋愛を必要と感じておらず、恋愛をめんどくさい、億劫だと感じているという趣旨のNHKの番組。

 番組の後半で、「恋愛はめんどくさいとブレーキをかける要因」を挙げたパネルが紹介され、「ストーカー、DV」「セクハラ」「メイドカフェ、漫画」と並んで「AKB握手会」が紹介された。

 それに対して、

  「AKBを過大評価しすぎ。あんなもんごくごく一部のオタがくらいついてるだけ。しかも若者じゃなくておっさん」
  「大半のファンは恋愛できないからアイドルに走るわけで、順序が逆 」
  「原因じゃなくて結果だろ。あれは恋愛競争市場から溢れた奴らの擬似救済システム」

などといった指摘がネット掲示板に書き込まれているというニュース。

 詳しくは、元記事で。必ず元記事を読む癖は大切だなーと最近思っています。

 

 僕の意見としては、「原因じゃくて結果だろ」がかなり的を得ている、というより全てかなと。でも、その考えでいくと、他の「要因」も結果のものが混ざっているかなとも思います。

 「要因」という書き方が良くなかったのではないでしょうか。

 

 僕は少し現代思想や批評に凝っていた時があったこともあってか、番組を見ていてあまり違和感を感じませんでした。

 現代思想などは、社会や作品の中などの構造を明らかにするために、表象に注目します。具体的なものから抽象的な考えを抜き出す、社会現象や作品内の出来事から社会や作品の構想や傾向を明らかにするのです。

 若者は恋愛に期待せず漫画やオタク文化などの疑似恋愛や断片的なコミュニケーションを望む(漫画、メイド喫茶、AKB握手会)。

 これらの表象が起こる理由として、若者は恋愛にネガティヴなイメージがある(恋愛結婚したバブル世代の親が幸せそうじゃ無い、セクハラ、DVが話題になるなど)。

 クローズアップ現代は、これをやりたかったのですが、不注意か視聴者のためにわかりやすく噛み砕いたのかして、同じパネルに並列に並べてしまっただけではないでしょうか。

 

 具体例から抽象的な主張を導き出す。世界をモデル化して構造に注目しながら大きな流れで捉える。

 このやり方はもはや多極化した現代では古いのかもしれませんね。

 具体例の事実確認や重箱の隅が突かれて話が僕も進まないことがあります。

 そもそも完璧に適合しないから具体例と呼ぶのであって、それを複数並べて共通項を生み出して不完全性を弱くしたいんですけどね。

めんどくさい事実確認や例外部分の説明ばかりして話が終わってしまうことは多いです。

(飲んでる時の最近の若者は云々論で、80年代とか昔は〇〇で今は〇〇、といえば、それ80年台後半から90年代だよ、みたいな)

 再びそもそもですが、多極化してるということは、主張も多極化してるので論理的に破綻してなければ問題がないと思ってます。

 どれか一つが正しくて、その通りに生きれば正義の味方って時代でもないと思うんですけどね。

 全てが相対的に並列して並べられるインターネットに象徴される現代で名無しは相変わらず近代的だなあと。

 親や先生の喜ぶ堅実で常識的な真面目くんを貫いても、親の年収超えない時代なんですけどね。

 論理をこねるより、マイルドヤンキー論のような「あるある話」や感情のこもった世間話、常識の同調圧力の陰口の方が好まれるのかもしれませんね。

 

 

 近代と現代の話はまた今度、考えがまとまれば。若者の断片消費についても。

 

 

ただの愚痴でおそらく支離滅裂ですが、徹夜の勢いで投下します。

 

ではでは。

 

橋下羽鳥の番組 (11月7日)を見て

遅れましたが、橋下羽鳥の番組の11月7日の放送について感想を書きます。

 

今回は異端児スペシャルということで、ホリエモンこと堀江貴文さん、2ちゃんねる解説者のひろゆきこと西村博之さん、国際政治学者の三浦瑠麗さんの3人と、橋下羽鳥のお二人、コメンテーターは杉村太蔵さんと森永卓郎さんと葉加瀬マイさん。ちなみに葉加瀬マイさんはほば空気でした。

以下敬称略です。

 

注目したいのはひろゆきの提言。

 「税金の無駄遣いした政治家は逮捕されるべきだ」。非営利の政治資金の運用も、民間のルールに則るべきというもの。

 ただ議論はどちらかといえば、無駄遣いとは何なのかについて進みました。

 民営化を進めれば無駄遣いを減らせるというホリエモンに対し、地方の採算の取れないインフラなど行政が行うべき事業もあるという森永、杉村のバトルが勃発しました。

 ホリエモンは、インフラもバスの定期運行の維持などを条件などに民営化すれば民間の力を積極的に導入すれば、逆に便利になって街が栄える、行政は規制緩和さえすればいいという考え。

 これに対し、興味深かったのがひろゆきの意見で、民間は短期でものを見てしまうから民間では絶対作れないもの、行政では絶対できないものがあるという考え。ホリエモンはそういうことも民間のクラウドファンディングで好きな人ばかり集めれば可能だと反論しました。

 ひろゆきは例に奈良の大仏やピラミッドをあげていましたが、ぼくもこの考えに(個人的にひろゆきは得意ではないんですがw)賛成でした。

 例えば図書館を民営化して、貸し出し数や住民の満足度を工場したいのであれば、村上春樹ハリーポッターなどの新刊が何十人も予約待ちになる人気図書を大量に入荷すればいいだけです。極論を言えばツタヤや紀伊国屋を国で保護すればいいのです。

 ただ図書館には生涯学習施設としての役割があり、例えば村上春樹の新刊が発売されると村上春樹の参考書や彼が影響を受けた作品、彼の影響を受けた作家などを利用者が手に取れる環境を整備することで、その自治体の知的レベルの向上に貢献することができます。まあ、実際は図書館のツタヤ化が問題となっているのですが。それは、新卒ポテンシャル採用で、大卒レベルの知識を期待しない社会の問題なのですが、またの機会にします。

 小学生の子供の好きな食べ物といえば、ハンバーガーやステーキでしょう。アメリカはそのまま大人になるので死ぬまで多くの人がハンバーガーを食べ続けますが、日本は給食や食の関心が高い国民性もあり成人する頃にはそれなりの味覚が身につく人も多いです。

 このように、民間や大衆の流れに任せてしまうとジャンクフード化するものがあり、それを抑止する力として行政の事業は必要なこともあるはずです。

 ただ、文学や音楽、芸術やサブカルなどたくさんの分野がある中で、どの分野は税金を投入してまでジャンクフード化を避けるべきであるのか。それは、選挙で有権者が政治家に投票し、彼らが有権者の支持を得て、大衆の声を代弁して決めていくことなのだと思います。

 

更新時期も遅れ、内容も薄いですが今回は以上です。

 

では。

本田圭佑というサッカー選手について-ミラニスタの独り言-ACミラン編

ACミランに所属する本田圭佑選手が、2016年10月25日のアウェーのジェノア戦で今シーズン初の先発出場。

しかし散々なパフォーマンスで、現地ファンから酷評を浴びているようです。

 

僕は、子供の頃からのミラニスタです。

現在20代前半の僕のミラニスタ歴などミランを愛して数十年というおじさま方の足元にも及びませんが、初めて好きになったスポーツチームはACミランでした。そこだけは神様に誓えます。

今回は、僕が大好きなACミランと尊敬する本田圭佑選手について書こうと思います。

二部構成です。

 

本田圭佑というサッカー選手について-ミラニスタの独り言-ACミラン編」

僕にとって、ミランの10番はルイコスタです。

CLのレアル戦での、シェフチェンコへ出したあの伝説のスルーパスが僕とミランの出会いでした。

カカが圧倒的な活躍を見せ、自身は出場機会を失い、サッカー紙ではファンタジスタ絶滅論が飛び交う中、試合に出れば優雅なプレーできっちり仕事をし、先輩選手としてカカにアドバイスを送り続けたルイコスタ。

そのカカが移籍先のレアルでは怪我もあり出場機会を失い、現代サッカーに対応した当時の最新型ファンタジスタのエジルがレアルで台頭してきたときは、複雑な気持ちで眺めていました。

2010年代初頭にトップ下不要論が叫ばれた時には、イブラヒモビッチらの2トップの後ろで躍動感あるプレーを見せたボアテングに新しいトップ下の可能性を感じていました。ノチェリーノも良かったですね。

 

黄金期では、中盤の底からピルロが試合を指揮し、狂犬ガットゥーゾがボールを追いかけ、カウンターを受けた時はアンブロジーニがニクいファールで流れを止める。大一番やシーズン終盤になると、抜群の存在感を示すセードルフ

 

もちろんマルディーニは最高のDFだったでしょう。でも、僕にとってミランの最終ラインはネスタのモノでした。

2011年、当時は超絶パスサッカーで攻略不能とも言われたバルサとのCLグループリーグでの対戦。

バルサのパスサッカー攻撃に、セオリー通りにブロック守備を敷いて対応するミラン。ブロック守備ではシャビを中心としたバルサのパスサッカーには対応できますが、メッシにドリブルのスペースを与えてしまうという戦術的に解答不可能の問題がありました。

そこで、当時のアッレグリ監督はネスタに全てを託したのです。パスサッカーはみんなで守る、メッシはネスタがなんとかしてくれる。

ネスタはボロボロの身体を駆使し、最後には必ず脚を出し、百戦錬磨の読みでメッシの突破を幾度となくストップさせました。その日、何度目かのネスタのタックルを受け自嘲的に空を仰いだメッシの顔が印象的で今でもよく覚えています。

そして、バレージからマルディーニ、スタム、ネスタの系譜を継ぐミラン自慢のCB、チアゴシウバが試合終了間際に感動的な同点ゴールを決めるのです。

 

ズラタンとチアゴシウバが同時にパリへ移籍し、ネスタMLSへ、ファンボメルに出場機会を奪われたピルロはユーベにいて、インザーギは引退。カッサーノはそんなクラブに愛想をつかし宿敵インテルへ。

そんな時にミランにやってきたのがモントリーボで、クラブに残りチームを鼓舞し続けのがアンブロジーニでした。デシリオのデビューやエルシャーラウィのブレイク、クリスタンテの売却もありましたね。

2012年のボロボロの状態からシーズン終盤の追い上げ、CLではようやくバルサに勝利、2013年にフィオレンティーナに移籍したアンブロジーニが背番号21番をつけて中盤の底でプレーしているのを見た時はおもわずニヤリとしたものです。

ニヤリと言えば、アムステルダムを訪れた時に、飾り窓のピンクのライトに照らされたお姉さんよりも、街角にはられたセードルフのステッカーに口元が緩んだ思い出もあります。

 

出来事の時系列はかなりグチャグチャになってしまってますが、そんな沢山の思い出があるミランに初めての日本人選手である本田圭佑選手が来た時は、いろいろな感情が渦巻き複雑な気持ちでした。

もちろんミランは大好きです。

本田圭佑選手も尊敬しています。

日本人離れした自信や結果主義、ピッチの上でのプレーの意識も、日本サッカー的な技術も高校サッカーの経験も。

彼ほど、ピッチの上でも外でも自分が何をしているのかを把握して、次にどう行動すればいいのかを考え抜いているサッカー選手を他に知りません。

ただ、そんな本田圭佑選手がミランでプレーすることに、どうしても違和感を感じてしまう僕があの時いたのです。本田デビュー戦のために日本中からミラニスタが集まった阿佐ヶ谷のスポーツバーに。

 

本田圭佑ミランのレベルではない、レベルにあったとしても本田のプレースタイルはミランに合わない、などの典型的な頭の固い古参ファンの意見にも僕は違和感を感じていました。

財政難による選手の質の低下や、ついてこない成績とサポーター。当時のミランが過去10年以上のなかで屈指の苦難の中にあったことも影響していたのかもしれません。

ただ、現在でも僕はこの違和感の正体を掴めずにいます。 一部終

 

次は、ようやく本田圭佑選手について書こうと思います。

 

ではでは。

おやすみなさい。

10月27日、明け方。

最近の若者の学問研究方 -Ciniiの可能性- 第1章

続けての更新です。

 

一夜明けて読み直してみると、Spotify論が我ながらあまり面白くなかったので。

一応まだ大学生なので、今回は最近の学生の研究の可能性を書いてみようかなっと思います。

これも、最近の若者は論的なやつですね。

 

最近の若者はネットの薄っぺらい知識ばかり信じる。

便利な情報社会なのにまともな専門知識を学ぼうとしない。

 

などなど色々言われていますが、ググったらなんでも出てくる時代であることは間違いないと思ってます。

国立情報学研究所の展開するCiniiという論文検索データベースをつかって、簡単に論文を見つけることができる時代。

今の学生と教授たちの時代では、どんな風に研究環境が変わっているのか、自分の考えを書いてみます。

 

三部構成の一部、まずはインターネットが当たり前の学生の頭の構造について。

文献検索がメインの人文科学学生としての意見です。

 

「最近の若者の学問研究方 -Ciniiの可能性-」

一章 ネットバカ

2016年10月26日 夕方の終わり

 

「ネットバカ」という本がある。ニコラス・G・カーというアメリカの著述家が2010年に刊行した本だ。

内容としては、最近の若者は知らない言葉があればすぐにスマホググることができる。それに慣れすぎて、長い一冊の本を読むことができない、という旨である。

例えば、「CiNii」という単語をあなたは知らなかったとする。あなたはすぐにポケットからスマホを取り出して「CiNii」と検索するだろう。そして、その言葉の意味を知り、その言葉について知っているつもりになる。

グーグルがなければ、あなたは図書館に行って「CiNii」について調べ、専門書を見つけなければいけなくなる。おそらく図書館情報学かなんかの分野になるだろう。

そして数百ページの専門書を読みその言葉の意味を知る。このとき、あなたは言葉の意味だけでなく、図書館情報学において「CiNii」の存在にどういう意義があるのか体系だった知識の一部として「CiNii」を捉えることができる。

インスタントにググるだけでは意味の情報は入手できても、体系だった知識は入手できない。

また、このインスタント検索に慣れてしまった若者の脳は、本を一冊読むことができない。

周りくどい表現や論理を理解する労力に耐え切れず、本に出てくる用語や概念の断片をググってなんとなくわかった気になって満足してしまうのだ。

 

僕はそれなりに本を読む方だけれど、kindleやPDFの論文はあまり進んで読めない。集中できないのだ。

一方で、父親iPadkindleで専門書をサクサク読んでいるのを見て、倒錯したジェネレーションギャップを感じていたのだけれど、ネットバカを読んで原因がわかった。

僕もかなりグーグルに慣れすぎているのだ。紙の本を読むことはできるけど、グーグルにアクセス出来るデジタルデバイスのディスプレイ上で本を読むことが出来ないのだ。

周りくどい表現や論理に耐えながら紙のページはワクワクしながらめくっていけるけど、ディスプレイの前になると我慢できずグーグルで検索したくなってしまう。

頭の中でグーグルがチラついて目の前の周りくどい文字の羅列に集中できない。

そんな反射反応をしてしまうのだ。

それは仮にオフライン環境だとしても当てはまるだろう。

ディスプレイ=グーグルという関係が脳内に染み付いてしまっているのだ。

 

このような若者たちは、固有名詞や、概念や用語などの意味を調べて情報を集積することは得意だけれど、それらで体系だった知識を構築することは苦手である。

高校までの詰め込み教育や、知ってるか知らないかのマウンティングは出来る。

でも、それらを叩き台にして、研究に取り組み新たなことを明らかにしたり、自分の論理を組み立てて面白いことを言ったりは出来ないのだ。

知識量と国籍や学歴など団体への所属が全ての2chネトウヨたちは、自分の考えをもった一個人になれず、小市民から抜け出せないのだ。

 

こんな僕たちの世代に、大学の学問の世界で親や教授たちのアナログ世代を乗り越える方法はあるのだろうか。

それとも、大学の学問そのものがおっさんたち向けのコンテンツなのだろうか。

一章終

 

大学で威張ってるおっさん教授世代って、大学で勉強せずに新卒採用に乗っかっても景気良くていい時代だったんですよね。

っていうのはまたの機会に。

 

ではでは

 

 

 

最近の音楽は・・・論に対して -Spotifyからみる現代音楽メディアのありかた-

こんにちは、久々です。

今日は、ぼっちライフを支える音楽について書こうと思います。

CDが売れないと言われるようになって久しいですね。AKBの握手券商法やアイドルブーム、二次元の架空バンドの音源デビュー、ボカロブーム、相変わらずのジャニーズ人気などでヒットチャートは上記のような音楽がほとんどな現状です。

それでちょっと音楽に詳しい高校の軽音部や、ちょっと尖った女の子、ちょっと頭いいマイルドヤンキーたちがご機嫌斜めになっております。

「最近の音楽はつまらない。CDはオタク向けの商品じゃない。実力がある人たちだけのチャートを作って欲しい」などとのたまわっておられるわけです。

 

まあ、毎日リバティーンズとオアシスを聴きながら寝不足の頭痛を抱え、ちょっと長めの電車通学のなか憂鬱な思いで駅への階段を上っていた経験のある僕にも個人的にも色々と思うことがありまして。(夜中に泣きながらジェームスブレイクや10ccを聴いていました)

 

9月末からSpotifyという素晴らしいサービスがついに日本で展開され始めたましたね。

それもきっかけの言い訳として、細々と恐る恐る自分の考えを書いてみようかなあと思いました。

 

「最近の音楽は・・・論に対して -Spotifyからみる現代音楽メディアのありかた-」2016年10月26日明朝

 

僕は最近の日本の音楽をあまり聴かないのでSpotifyでそれらがどのように扱われているのかわからない。しかし、EUやアメリカを中心としたいわゆる洋楽はほぼ全てのレーベルからSpotifyは許可とっていてSpotifyの上で聴くことができる。

違法ダウンロードでもコピーでもなくきちんと再生回数に応じてSpotify全体の広告の売り上げからアーティストにお金が入るシステムが成立している。

海外に住んでいた時、Spotifyでかっこいいバンドを発見し、Spotifyのインターフェースに表示されるライブ予定をみて近場のライブ現場に実際に行ってみたら、観客20人ほどしかいなかったという経験もある。そんなローカルバンドまでSpotifyは網羅しているのだ。

トムヨークのような何らかの思想や理由がある例外を除けば、Spotifyで音源配信をしていないアーティストはほぼいないと言っていい。


流通に乗らないクラブミュージックをはじめとした自己満足型の音楽やってる人たちも、発信する意思があれば、SoundCloudなどで自身の音源やその日のDJのセットを発信してる。
ロックのライブ動画のようにアーティストのとっておきのセットを見て、クラブにいるような疑似体験を欲するのであれば、YouTube上で展開されているboiler roomやdommune、mixmagなどの幅広いクラブミュージックのプレイを公開するプロジェクトを利用すればいい。

 

音楽を聴きたくて音源を買ってアーティストにお金を払う時代ではないのだ。
CDのような小売の音源メディアがアーティストとリスナーの媒体ではなく、ウェブ上の音楽公開サービスが媒体になってる時代である。
サービス展開してる企業にお金を払うこともあるが、ほとんどのサービスは広告で利益を生み出してるためお金を払う必要ない。この時、音楽作品たちは、商品ではなく広告のために人を集めるためのものであり、音楽作品そのものが利益を生み出すメディアになってるということもできる。


となると、CDなどの音楽メディアを買う理由は作品やアーティストへの所有欲となる。
音質にこだわるという人もいるだろう。しかし、CDプレイヤーをわざわざ持ち歩くか、自分の部屋にアンプまでこだわったオーディオシステムを持ちCDで聴いている人など少数だろう。

なにより彼らが本当に音質にこだわるのであればCDではなくハイレゾという革新的な規格が用意されている。
MP3という音質悪化の圧縮を宿命とする規格を音源とし、iPhoneiPodウォークマンなどのポータブル機器に内蔵された子供騙しのちゃちなdacやアンプで音楽が再生される環境ではCD音源を手元に持つことに拘る意味もほとんどないと言っていいだろう。

Spotifyで聴くことができるのに、ハイレゾで高音質の音源が用意されているのに、わざわざ小売の音源にお金を払う人たち、彼らがタワーレコードhmvや中古レコードショップに通う理由は主に一つである。(DJをしていたり、CDありきの自慢のサウンドシステムを持っていたり、これだけデータベースが充実してもまだハイレゾ化していないニッチなアーティストの音源を求めているなら別だが。)

物欲つまりは所有欲。彼らは買い物がしたいのである。

その場合、買う商品としてCDよりもレコードの方が物欲がくすぐられ、コレクションとしても優秀である。またハイレゾはCDよりも高音質という謳い文句を掲げているが、レコードの音の温かみや厚みは、レコードがハイレゾと音源として差別されることを助けている。

最近ではレコードプレイヤーが奏でる音をハイレゾとして録音する機器まで登場している。

近年のレコード市場が再加熱した背景にはこのような事情があったのである。
CDは、その音源メディアとしてのスペックの限界と小売するものとしてのハード商品の性質から、現代の音楽産業では不要なものとなりつつある。

CDの売り上げランキング(もはやそんなものに意味などないと思っているが)の上位を占めるのは、商品として付加価値をつけたAKBグループ、子供と大人という前世代的消費者を対象とし中間層の現代を生きる若者を対象としないジャニーズなどのアイドルグループ、二次創作や名もなきアマチュアの姿勢からの創造物としての可能性を広げる挑戦を続けるボカロ、地下アイドル、二次元系グループなどである。

彼らは、若者と音楽を通して繋がるためにCDを用いているのではない。

あくまで、自分たちのグッズの一つなのである。


CDが売れないことと、最近のヒットチャートの質への極私的かつ主観的な感覚を安直に結びつける意見がネットでもリアルでも散見される。

CDが売れなくなったので音楽の質は下がり音楽はつまらなくなったと彼らは決め付けている。しかし、その意見は、あまりにも安直すぎるのではないかというのが僕の考えである。 終

 

現在の音楽の質が高いのか低いのか話はまたの機会にしたいと思います。

Huluの会員だけれどもCDやHuluにないDVDを借りにツタヤに行ってるロックンローラーたちは、HuluよりもSpotifyの会員になった方がいいんじゃないかな。

Huluにない映像がTSUTAYAにあることはあっても、Spotifyにない音源がTSUTAYAにあることはほぼないから。いわゆる洋楽での話だけれど。

久々の更新でした。

おやすみなさい。

ぼっちが一人で、クールに生きる

「よくない?」

「一緒にいこうな」

「なんもだよ」

こういう言葉たちの語尾の不自然な上がったり下がったりが脂っぽくて苦手だった僕は、気付けば一人ぼっちになっていました。

 

孤高なんていってお高くとまって気取ってみたいわけじゃなくて、いじめや高校大学デビュー失敗、大学ぼっち、社畜で鬱、人間関係が苦手、一人が好きなど、すべてのぼっちの方と楽しみを共有したいと思ってます。

 

面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり

 

音楽や映画、お酒、小説などなど、一人でも楽しめるちょっとした楽しみを日々用意してお待ちしております。

 

よろしくおねがいいたします。