ホリエモン「バカは頭がいい人よりも成功しやすい」についてゆとり的雑感
ホリエモンの記事が話題となっております。
堀江貴文氏 「バカは頭が良い人よりも成功しやすい」
https://www.news-postseven.com/archives/20170722_593503.html
1、ホリエモンの言う「頭がいい人」とは
「そこそこ大きな会社に勤めている人は、傾向的にみんな頭が良い。一応は名の通った大学を卒業するぐらいの地頭でないと、正社員になるのは難しいので、(以下略)」
ホリエモンも東京大学に合格した地頭があり、仲良くしている2ch創始者のひろゆきさんもマーチ卒と最低限の地頭をもった人でないと、それなりの仕事もそれなりの世間体の人生も歩めない社会だという一般的な考えには異論はないようですね。
2、頭がいい人の現在とは
「会社勤めのダメなヤツらは、会社というベンチに自分の意思で座り続け、打席に立たない臆病者だ。ベンチにいながら、チーム内で評価される方法はあるけれど、上司の機嫌をとったり同僚の足を引っ張ったり、そういう小手先の知恵しか働かない。人としての根本的な不安は解消しないのに。」
かつては、それでよかったわけです。日本国のために戦闘機に乗っていた男たちは、家庭のために満員電車に乗り、坂の上の雲に手が届く勢いで日本は戦後復興を果たしたわけです。
しかし、現在ではネトウヨは嘲笑の象徴となり、企業戦士は社畜として若者から避けられる存在となってしまいました。
ほとんどの人が共有していた絶対的な価値観や感覚がどんどん衰退しているのです。リオタールが唱え、東浩紀が紹介した「大きな物語の衰退」というものです。
「あるべき姿」のために自己犠牲をすることの意味が徐々に失われているのです。
バブル以降は、親や上司に評価されても彼らと同レベルの能力では同じ生涯年収を稼げません。満員電車に乗って過労死すれすれで働いても、家庭のつながりはかつてほど強固ではありません。
「頭がいい人」の「ご立派」な人生ルートはジリ貧になっているのです。
3、バカは世界を変えるのか
「けなしているわけではない。バカは平気でリスクを取り、失敗を怖れない。いい意味で鈍感。何度でもチャレンジを仕掛けられ、結果的に成功する。バカは最強なのだ。」
ホリエモンはそんなジリ貧の社会に誰かが風穴をあけることを期待しているのでしょう。
僕はバカにはそれは難しいと思っています。なぜなら、「ご立派」なものはなんだかんだで「ご立派」だからです。インターネットの時代だと言われ始めて20年近くたっても優秀でオシャレな若者はテレビ局や出版社に集まります。
上司の生涯年収を超えなくても、一等地で大企業が代々引き継いできた大きな仕事をすれば同級生にはモテます。合コンでもモテます。カッコイイです。
中途半端な学歴や高い意識を持った人ほど、起業家の話を信じ込み、ベンチャーの世界に飛び込みます。しかし、ゆとり世代まではおそらく大企業の方が生涯年収もよく、周りの人間も優秀で、仕事も楽しく、専業主婦希望の女性の方が美人でファッションやインテリアのセンスもあるでしょう。
意識高い系や成り上がりは、大企業のエリートたちからは「必死な奴ら」として相手にされていないのが現状かなと思います。
世の中の流れを読むことと、自分にとってより良い人生を選ぶことは別だからです。
自己責任で自己選択をすることが現代の生き方だと僕は思っています。キャバ嬢やあまり社会が見えない女性と遊びたいならベンチャー起業でもイイですが、それなりの育ちや知性を持った人と付き合いたいなら若者はジリ貧ルートを選ぶべきでしょう。今の若者が若者でいられるのはせいぜい10年後までだからです。
誰かの意見を鵜呑みにしたり、世の中の流れを読むことばかり考えて正しいことを探そうとする人は、現代においては戦時中から脳みそが進歩していない「本物のバカ」だと思います。
しかし、ホリエモンはおそらく「だからこそ」
バカを褒め称えているのでしょう。
日本屈指の発信力を持った自分がそう言えば、少しでも優秀な若者が少しでも多く風穴を開けてくれるかもしれない。優秀じゃないバカでも成功する奴が一人でも増えるかもしれない。日本が面白くなるかもしれない。何もしないよりは一人でも引っかかってくれればいい。限りなくネット的なロングテール思想で確信犯的に発言してるのではないかと思います。
最後にホリエモンはこうまとめています。
「協調性のないヤツが面白がられる空気感は、少しずつだが育ってきている。いずれは、プライドにも他人の目にもとらわれない若者が最も評価され、好きなときに好きなことをするのが当たり前の世の中になることを、私は期待している。」
ホリエモンがちょくちょく推しているベーシックインカムやAIの発達によりエンタメが盛んになる未来予想図なども、面白いことを出来る奴らがなるべく低いリスクで、バカな世界に飛び込みやすくなる世の中を期待しているのかなと感じています。
4、ゆとり的雑感
ホリエモンがもっとイケメンで背が高くて痩せていれば良かったのに、アートやファッション、映画や音楽のセンスがあれば良かったのにと思います。
ホリエモンは、いつかのラジオで東浩紀のネットでもそこまで世の中は変わらなかったという意見に対し「ジョブズが電話のフリしてスマホという小さなPCを浸透させたように、人を騙すことで世の中はまだ変わる」と発言していました。
ジョブズはカッコいいんです。創るモノが。
そして、バカから頭のいい人まで欲しがる。オシャレだから。
ホリエモンの考えは好きだし、そういう世界になってほしいけれど、ホリエモンの発信力はカッコのいい人たちの世界に届きにくいから難しいのかなーとも思います。
ひろゆきは言わずもがな、東浩紀もホリエモンみたいにゆっくり堂々と話せばいいのに。
そして全員、スーツじゃなくてもいいから、もうちょっとオシャレな服を着ればいいのに。
ちなみに僕は最近、禁断ボーイズの動画が好きですw
どうしてもギャングースと重ねてしまって。
あれこそバカでカッコいい人たち、変なプライドはないけど変なこだわりと夢はある人たちだと思います。
ではでは。
若者の海離れからみる現代の生き方
若者の海離れ、ビール離れが話題となってますね。
SNSや某掲示板などネットの言説を眺めると、お決まりのパターンがちらほらと。
「なんでおっさんたちってバカみたいに海に行って、ビール飲んでんの?」
「今の若者は何もしなさすぎだろ。何が売れるんだよ」
ジェネレーションギャップというやつなのでしょうか。
若者は、時代は何に向かってるのか考えて見ました。
1、〇〇離れとはオワコンである
若者の「恋愛離れ」「車離れ」「新聞離れ」「テレビ離れ」「本離れ」などなど。若者の〇〇離れはとりあえず話題になります。ひどい時は「金離れ」なんて言われたり。
中高年世代では当たり前、当然だと思っていたコンテンツに若者が魅力を感じなくなっていると、「最近の若者は〜」と同じようにマスメディアに取り上げられるわけです。そのマスメディアからも若者は離れていっているわけですが。
原因は2つ思いつきます。
1つは、単純に時代の流れで古いコンテンツが新しいコンテンツに淘汰されていくこと。お酒を飲まなくても楽しいことならたくさんある。スキーや海外旅行に行かなくても、楽しいイベントがたくさんあるなどです。
もう1つは、インターネットや都市部の新しい層の知識人たちの発信力が高まり、絶対的な権威が弱体化していることです。一昔前までは、どこかの大学教授や有名作家が絶賛した作品が、マスメディアによって素人向けに拡散されていただけの時代でした。しかし、現在は「あいつ大したことねーよ」「この作品のほうがすげー」「信者はこれやっとけば買うからなw」「情弱ww」「電通www」といった言説が展開される空間がインターネットにあります。わざわざ都会の空間にアクサスしなくても自称わかってる人たちの意見に触れることができるのです。結果、なんとなくすごいと思っていた作品やなんとなくするものだと思っていたコンテンツは地盤沈下を起こしていきます。
2、若者は何に集まっているのか
旧世代が、頭脳を停止させ従っていた常識や権威、崇めていた作品を相対化させた若者たちは何に魅力を感じているでしょうか。
良く言われるのがソーシャルゲーム課金やオタクイベント、新型iPhoneなどです。
しかし、それらはかつての車、スキー、ギターや麻雀などに並ぶほどのシェアは得ていないでしょう。
現代社会については、多極化とともに均質化も指摘されています。
若者は分散しているのです。
3.社会の均質化とは
海も結婚も依然として魅力を感じる若者はいます。引きこもりソーシャルゲームに魅力を感じる若者もいます。
マスメディアやスクールカースト上位などの影響力が薄まり一つのモノに人間が集まらなくなっているのです。
かつては山があり谷があり、起伏があった社会の山が崩れて、全体がフラットになっているのです。
マスメディアも、リア充文化もオワコンにはならないと思っています。また、ソーシャルゲームのような後発文化がオワコン呼ばわりされているかつて圧倒的な影響力を持っていた文化を変えることもおそらくないと思います。
フラットな世界ではとにかく移動や情報入手が楽です。クラスに一人しかいなかったようなマイナーな趣味の人たちがSNSで出会うことができます。
「オワコンww」は、無意味に流行りを追いかけるだけの時代遅れの脳停止した言葉だと思っています。
冬に向けてカナダグースのダウンの準備でもすればいいのではないでしょうか。
ではでは。
どうしてGACKTは一流芸能人なのか。-芸能人格付けチェックから-
税関職員への苦言で話題のGACKTさん。今日は彼の話題です。
芸能人格付けチェックという新年恒例の番組がありますね。
一流の最高級のモノと二流以下のモノを食べたり飲んだり聞いたり見たりして、審美眼を競う番組です。
音楽やワイン、映像や盆栽などの分野で、利き酒のようなゲームをやって、全ていいものを見極められれば、一流芸能人の称号をもらえるという企画です。
その中で断トツの強さを誇るのがGACKTさん。今年の番組開始時点でなんと42問連続正解中。GACKTさんの答え=正解になってしまうので、GACKTさんだけ解答が発表まで伏せられてしまう特別待遇まで受けています。
今回はなぜGACKTさんが強いのか、目利きとは果たして何なのか、育ちの良さとは何なのか、について考えていこうと思います。
なぜGACKTさんは強いのか
GACKTさんが強い理由として、一つ挙げられる確実で圧倒的な理由は、答えを「知っている」ことです。
今年の100万円のワインと5000円のワインの利き酒企画で言えば、1928年のビンテージ物のシャトー・オ・ブリオンというお酒を知っているのです。
それそのものを飲んでいる場合はもちろんですが、他の年代のシャトー・オ・ブリオンがどんなワインなのか、90年近いビンテージのワインとはどんなものなのかを知っているのです。ヤラセという意味では決してありません。
多くの他の参加者が、良し悪しで判断をつける中で、GACKTさんは正解の味を想定し、適合率で答えを出しているのです。そして、その正解の味の想定の制度が非常に高いのです。
他の例に例えてみましょう。
僕は、ロックミュージックがとても好きですが、ギターはほとんど弾けません。
果たしてそのギターソロは世界的ギタリストのものなのか、実力派スタジオミュージシャンやインディーバンドのギタリストのものなのかという問題がでたとします。僕はおそらくGACKT並みの正解率で聞き分けは出来ません。(100問ぐらいやれは他の人よりも正答率は高い自信はあります笑)
でも、「世界的ギタリスト」が僕の「知っている」ギタリスト、例えばジャックホワイトやジョンフルシアンテ、ジョニーグリーンウッドであれば正解率はぐっと上がるでしょう。
ギターの上手い下手、機材の良し悪しだけではなく、癖や好みでそのギタリスト「らしい」音を選べばいいのですから。
GACKTさんはその適合率解答式を特にワインやお肉、バイオリンなどで圧倒的な精度で用いることが出来るので、間違えることがないのです。
今年で言えばバイオリン聞き分けの時に、「ハーモニーが合っているのはBだが、ストラディバリウスの音は間違いなくAだ」と自信満々に答えたのが印象的でした。
目利きとは何なのか
以上から、目利きとは2種類あることがわかりました。
モノの良し悪しでいいものを選べる目利きと、「知っている」ものかどうかを選べる目利きです。
ここで、指摘したいのはある程度ちゃんとしているモノと超一流のモノの良し悪しの目利きは非常に難しいということです。
今年の100万円のワインを例にとります。100万円とはヴィンテージものが高級ホテルで出される時の値段であり、2010年代ならせいぜい数万円、楽天では1万円代から販売されてます。(ワインに詳しくないので見当違いのことを言っているかもしれませんw)
それと5000円のそこそこちゃんとしたワインの比較になると、モノの作り自体は本当に世界的ギタリストと実力派若手バンドのギタリストぐらいの比較になってしまうんですね。5000円のワインもキャバクラだとおそらく数万円しますから。
育ちの良さとは何なのか
その違いをわかる人は、本当に良いものだけを与えられて育った育ちのいい人たちだけになるでしょう。実際、現在は大金を持っているはずの売れっ子芸能人達でもわからないのですから。
GACKTはお育ちは良くないようですが、自身への投資をケチらない人なようなのでお育ちの良い人と同様のモノの良し悪しがわかる目利きも手に入れているのでしょう。
育ちが悪いなりのセンスとは
育ちが悪く、お金のない人がものの目利きを身に付けようと思うなら「知っている」モノかどうかの目利きになるでしょう。
ギターの腕はわからないけどジョンフルシアンテのギターは好き。
ファッションはわからないけどアレキサンダーマックイーンは好き。
それはつまりブランドで、何が凄いかもわからなくても、それとそれ以外の区別が出来ればお金を払う価値になるでしょう。
ジョンフルシアンテの来日なら、レディオヘッドの来日なら彼らの何が凄いかわからなくても好きだから高いチケット代を払ってでも行くなどです。
そして、音楽や映画、文学はどれだけ制作費がかかった大作でも大して値段は変わらず、図書館やツタヤでたくさんの作品に触れることができるのです。
レコード会社を一つ潰したマイブラのラブレスも、デーモンが旅行中にiPadで作ったゴリラズのアルバムも全て同じ価格で触れることができるのです。
それがロックンロールや文学の面白さだと思います。
育ちの悪い奴ほど、音楽を聴け、そして本を読め、好きなことをしろ。そしてGACKTを目指せ。
今回はこれでまとめたいと思います。
常識、モラルについて。モラハラとは勝利である。
こんばんわ。
今日はモラハラについてです。
モラハラとは、モラルハラスメントのことで、モラルによる精神的な暴力、嫌がらせのことですね。
例えば、食費月3万円でやりくりできない妻に、「充分やれるはずだ、お前の金銭感覚は異常だ」という夫。
仕事で忙しく家族サービスの出来ない夫に、「私たちの時はもっと大変だったけど、ちゃんと家族サービスをしていた」という妻側の義父母。
他に定義はあるのでしょうが、今回は「自分の常識を棚に上げ他人に押し付ける人」とします。
僕は、育ちがガサツなのもありますが、絶対の常識なんて存在しないと思っています。絶対なんてないことだけが絶対だと思っています。
もちろん、人それぞれ常識は違います。
お茶を出した時、出して頂いた立場だから家主が飲むまで口をつけないのがマナーと思っている人もいれば、それはビジネスのマナーでプライベートでは、もてなされた側が遠慮なく先に口をつけるのが礼儀だと思ってる人もいます。
自分の常識が受け入れられれば気持ちいいですが、どうすればそれが可能なのでしょうか。
僕はその人とその常識の魅力、値打ちだと思っています。
時間にルーズな外国人が、日本の文化に惚れ込んだとします。どうしても日本で働きたいと思い、なんとか日本の企業の面接を取り付けたとします。間違いなくその人は日本の企業の常識に従い予定時間の15分や30分も前に現場に到着するでしょう。
日本の古くお堅い会社では、書類に複数の関係者が印鑑を押す際に、一番偉い人がまっすぐ押し、下の人間は45度傾けて印鑑を押し、お辞儀のように敬意を表すそうです。自由な雰囲気な会社で働く多くの人は馬鹿げてると思うでしょう。もしかすると印鑑を傾けている本人たちも馬鹿げてると思ってるかもしれません。でも、そうすることで上司や取引先に気に入られ、その会社に残ることやその会社で出世することが出来るのです。本当に馬鹿げていて割りに合わないと思えば、転職してその人が思うマトモな会社でマトモな人たちと働けばいいのです。
自分とは違う常識をこなすことに、メリットがあれば人は相手に合わせるでしょう。つまり、自分に魅力や値打ちがあれば周りは自分の常識に合わせてくれるのです。
上司や夫や妻がモラハラだと嘆く状況は、部下や専業主婦や惚れ込んだ夫の立場が弱く相手に合わせざる得ない状況と言えるのです。
周りの非常識を嘆きたければ、自分が強くなって周りを自分に合わさせれば良いのです。
本当に割りに合わなければ、転職や配置転換、離婚などのリスクをとって自分が思うマトモな世界に逃げ込んで愚痴でも言ってればいいのです。
サークルの部長がかわり時間に異常なくらい厳しく、仲間内のイベントでも10分前集合で遅れれば置いていくようになった経験があります。
結果、不満が続出し僕を始め多くの人が離れ、精力的に活動するメンバーは半分以下になりました。
離れたメンバーは昔ながらのルールで集まり以前同様楽しく遊んでいました。
おそらく残ったメンバーは「あいつら時間すら守れねーのかよ」などと僕たちを馬鹿にしていたでしょう。
この例で言いたいのは、数が多い僕たちの勝利だということではありません。
僕たちも部長たちもやってることは変わらないということです。常識が近い人たちが都合よく集まりそれぞれ楽しく過ごしているだけです。(細かいことを気にしてる方が偉いと思ってる人たちは、裸の王様であることに気づいた方がいいとは思いますが。)
本来であれば、自然とそうなるわけですが、モラハラは自分とは違う常識を持った人に、無理やり自分の常識を押し付けることが出来ているのです。
それは、その人に地位や経済力、数の力、相手をうまく引き返せない状況に追い込んだ地の利などがあるから可能なのです。
そういう意味で、モラハラとは勝者の証なのです。
明らかにダメなことはキチンとした手続きを踏んでルールとして決まります。法律やサークル規則、入居者規則、カップルの決まりごと。
それ以外は自分の好きなように生きて、方法論的に他の人の常識に合わせて自己選択自己責任で生きていけばいいと思っています。
以上です。
都会とは、都会的生活とは。極私的都市論
今回は都会について気まぐれなるままに書いていきます。
結論から言います。僕にとって都会とは自分みたいな奴らに会えるところです。
田舎とはなんなのでしょうか。モノがない。人が暖かい。嫌われると村八分などなど。
まとめると、生活が人間により左右される場所だと思います。
良く言えば人情溢れた、悪く言えば人間臭い。
都会とはなんなのでしょうか。モノが溢れている。人が冷たい。嫌われるとぼっち。
まとめると、人間以外によって生活が左右されている場所だと思います。
田舎で大切なのは人間性です。愛想がいいか、性格がいいか、常識があるか、きちんとした仕事についているか、ややこしい界隈で育っていないか、子供のしつけはされているか。
その人の人間性全てを知ろうとし、その場所のルールやモラルに当てはめて判断しようとします。「郷に従え」というやつですね。
僕が思う都会とは、そのような常識や全人的コミュニケーションが好まれない場所やコミュニティのことです。
教室の隅っこで一人で聴いていた音楽や小説、自己満で極めていたファッション、夜中に一人で見ていたサッカー。
田舎では一人でコソコソしていたことです。それが、都会に行けば、音楽イベントや本屋のラインナップ、ブランドショップ、スポーツバーなど場所とコミュニティが供給されており、自分みたいな人たちに会うことができます。
そこでは、何が好きで何故そこにいるのかが重要で、どんな仕事をしているのか、性格がいいのかなどは大して重要ではありません。むしろ、自分とは全く違う育ち、生活水準、学歴、職業、性格の人と会えることが楽しみであったりします。
極論を言えば、自分に似ていて性格良く感じるひとよりも、自分の想像のつかないくらい無神経で性格の悪い人の方が、感性を共有する相手として面白いのです。
数十万の人口の都市でもキャバクラや高級レストラン、ブランドショップはあります。
しかし、大都市に行かないとマニアックな趣味のお店やイベントは少ないのです。
なんとなく街が栄えている、建物が豪華、人が多いから都会だとか、都会は便利という人は、田舎でぶっちぎった上位層にいる方が幸せなんじゃないかと思います。
地元で専業主婦の奥さんと幸せに暮らし、ご近所づきあいを円満にして、子どもの成長を楽しみにする、古典的な人生を送るなら田舎の方が向いているでしょう。都会に住むメリットなど地下鉄やバスぐらいではないでしょうか。
平均所得の低い田舎であれば見栄を張る必要もなく、土地代も安いので一人一台軽自動車ぐらいは買えます。
公務員でもインフラでも交通でも地元マスコミでもそれらの子会社でも都会で成功するほど優秀な人たちには、田舎にも仕事はいくらでもあります。
そんな常識やテンプレを当てにせず好きなことをしてサバイバルを生き抜く覚悟がある人は都会が向いているでしょう。自分らしく生きて、自分みたいなセンスだけど自分とは育ちも常識も全然違う人たちに会えるからです。
ではでは。
国民年金に関する駄文
国民年金制度についてです。
巷で言われる国民年金に入る理由は主に3つです。①「年金はもらえます。」②「財源の半分は税金なんだから入らなきゃ損」③「突然、死亡したり障がいを負った時に給付される年金もあります」
今回はこれらについて考えていきます。
以下、断りなく年金と書いた場合は国民年金を指すとします。
①年金はもらえます
これは間違いないでしょう。現在年金は「給付水準維持方式」ではなく「保険料水準固定方式」が採用されています。導入以降、年々上昇してきた保険料ですが、16900円で打ち止め以降は年金支給額を減らすことで収支のバランスを取ろうという考えです。
年金が減ることはあっても貰えなくなることはなく、保険料も現時点では上限が確定している状態です。そして、その上限も現在の保険料よりほとんど変わらないということですね。
②財源の半分は税金なんだから入らなきゃ損
これが微妙です。国民年金はもちろん税金が投入されていますが、損得については具体的な数字から考えてみましょう。
現在の保険料はほぼ年額20万円。「保険料水準固定方式」の上限もほぼ変わらないので、20歳から60歳までの40年間で総額約800万円を支払う計算です。65歳からの年金支給額は年額約78万円。11年受給すれば元を取れる計算ですね。年齢にすると76歳。男性の平均寿命80歳よりも下。つまり得する可能性の方が高いわけです。
しかし、「保険料水準固定方式」で受給額がこれから増減します。2014年の政府の試算では30年後に3割減。つまり年額54.6万円。
65歳から受給開始が維持されるとして800万円の支払いをカバーしようと思うと何歳まで生きればいいのでしょうか。
ちょうど80歳。
まるで狙ったかのように現在の男性の平均寿命なんですね。
寿命が延びるはず、延びたとしても受給額が減るだけ、そもそも政府の見通しが甘いなどいろいろと言われてますが、未来の全てが平均的に予定通り進めば今の若者はちょうどプラスマイナスゼロの制度になっているんですね。そして次の話題になるわけです。
③突然、死亡したり障がいを負った時に給付される年金もあります。
「予定通り」であれば国民年金はプラスマイナスゼロになる制度だとわかりました。
プラスマイナスゼロの制度に入る意味があるのか。そこで取り上げられるのが障害者年金や遺族年金です。これらは事故や病気で想定外のことが起きた時に貰える年金、つまり保険です。
本当に国民年金がプラスマイナスゼロの制度であればタダで保険に入るのに等しいので入って損はない。ましてや税金も投入されているのだから、という考え方ですね。「予定通り」進むと信じるならいい考えだとおもいます。
ここまでは、客観的に数字から年金制度を考えてきました。ここからは、ぼくの独断と偏見による所感、自己選択について書こうと思います。
保険料の上限が設定されたことは述べましたが、それはつまりそれまで保険料が上昇してきたということです。言い換えれば、年齢が上がるにつれて支払ってきた総額は少ないということです。
僕が生まれた20数年前の時の月額保険料は1万円を切っています。
支払い額が少ない世代より支払い額が多い世代の支給額が少ないなんて納得できません。
少子化だからしょうがないと言われるのでしょうが、なぜ少子化なのか。それは支払い額が少ない世代が子供を産まなかったからです。
国民年金は税金により若者でもプラスマイナスゼロになる可能性がありますが、世代間の格差は明白です。不景気のなか懸命に生きている若者より、納めた保険料も少なく、貯金も多い世代がたくさん受給する制度は明らかにおかしいと思います。
景気のいい時代に生まれ育ち、老後の年金の見通しも良い時代に結婚し、自分たちは子どもを産まず少子化を引き起こし、年金の支払いは人口の少ない少ない子どもたちに多く負担させる。
ぼくは絶対に納得できません。
学生特例を受けたとしても、働き始めると強制的に給料から天引きされます。もはやジジイたちのカツアゲです。
障害者を負った場合や長生きした場合、物価上昇などのリスクもありますが、日本人には生活保護を受け、最低限の生活を送るという立派な権利が保障されています。
非常時でビビらせて安心を買わせるなんて、ヤクザのみかじめ料のようなアコギな商売です。
ぼくは年金を払うぐらいなら自分で資産運用をしたいです。自分で勉強して日本の経済に貢献したいです。
若者がこのような声を大きくして、暑くても寒くても自転車で選挙会場に向かい投票し、無賃で快適なバスや電車を利用して選挙にくる老人たちから利権を奪える日が来ることを願っています。
民主主義という戦争について 「ギャングース」カズキの最後の言葉から
更新が開いてしまいました。
漫画のネタバレが入るかもしれませんがご了承ください。
今回は、お堅い民主主義というテーマです。
僕の好きな漫画にモーニングで連載されているギャングースというものがあります。
その中でカズキという育ちに恵まれなかった主人公が(内容のみで字面はうろ覚えですが)「世の中の人の半分が思ったことが現実になるっていうのが本当だったら、恵まれない子供だって救われるはず」みたいなことを言うんですね。
過半数の意見が総意となる民主主義のことですね。今回のテーマです。
では、なぜ子どもたちは助からないのでしょうか。
そもそも日本の投票率の低さや政治的関心の低さは散々問題として要因から解決策まで議論されてきました。
僕は、日本の民主主義のレベルの低さは「危機感の欠如」にあると思います。
そもそも政治家は全国民を幸せにする学級委員長ではありません。選挙で自分に票を入れてくれた人たちの代弁者として政治活動を行うのです。そもそも民主主義は全ての人を幸せにするものではありません。一番多く票を集めた意見が国民の総意となるのです。
どういうことかというと、選挙とは若者vs老人、男vs女、高所得vs低所得、都会vs地方などのそれぞれの層で日本中の利権や税金を取り合うものなのです。
選挙にこない若者が、暇つぶしに選挙にくる老人の電車代を税金から負担させられる状態は、民主主義によって若者が老人に敗北したことを意味するのです。
ここで重要なのは全ての人に一票が与えられていること、票を入れなければどれだけ正しいことでも意味がないということです。
例えば保育園を作れ日本シネと、デモをしたとするでしょう。マスコミも取り上げます。朝日新聞か毎日新聞あたりでしょう。でも、それだけでは何の意味もないのです。それで自分たちの意見を主張することには成功しました。次はその意見をもって選挙にいくこと、出来れば団体を結成して組織票を持つこと。そうすれば、その票欲しさに選挙の際に「保育園を作る」と代弁してくれる政治家が出現します。そして、仮にその人が当選したとして、任期中に宣言したことを実現させる実行力があるのか、なければ次は別の人に入れるということを繰り返すことで自分たちの意見は政治に反映させていくのです。
代弁してくれる候補者がいなければまずは白票を入れればいいのです。選挙にこない層向けの政策など政治家にとって何の意味もないのですからするわけがありません。まずは自分たちの票層をアピールする必要があります。
それをデモだけやって、新聞に載っていいことをした気になって、投票日に選挙に行かずにパンケーキでも食べならが女子会をやっている。そして帰宅後は夕方ワイドショーで政治家の不祥事をみて、「自分たちは毎日こんなに苦労してるのに」などの感情論をボヤく。そんなことをしているだけでは社会は変わりません。自分の一票を大切にしましょう。
また、大多数の人は素人です。これは政治以外の全ての分野に当てはまります。ファッションから数学まで世の中の大多数の人たちは「わかっていない」連中です。そのため「わかってる」連中がリードして分野は進むわけですが政治は「わかってない」素人の多数決に支えられます。
簡単に言えば、TPP反対、原発反対、集団的自衛権反対、公務員給料減らせ、地方にお金をよこせ、という理想論が人気も出て本来は強いはずなのです。実際は綺麗事では解決できないから、世の中が動いているわけです。しかし、そのような事情を知る少数派の知識人の意見と素人の感情論が選挙の際は同等に扱われてしまうのです。子供手当にしか興味のないマイルドヤンキーから日本はどうあるべきかを考える大学教授まで同じ一票なのです。
つまり、民主主義平等選挙とは低所得低学歴の人たちへの出血大サービスなんですね。
ただそのような弱者たちは出血大サービスだということにすら気づかないわけです。そしてテレビで文句だけ言って選挙にこないのです。
その結果、アベノミクスは選挙に来る大企業や高所得者など強者の票を集め政治的には絶好調ですが、テレビでやネットでは選挙に来ない弱者のアベノミクス批判が大半という矛盾した現象が起きるのです。本当にほとんどの人がアベノミクスに反対すれば、自民党が圧勝するはずなどないのですから。
この投票率の低さが起こした選挙に来る有権者の層が偏る状態は良いのか悪いのかはなんとも言えません。会社に例えるとわかりやすいかもしれません。あまり頭の良くないアルバイトから社長まで全員平等で民主主義で意思決定を行い会社を回せば従業員の満足度の高いホワイト企業が完成するでしょう。しかし、競争力を維持することは難しいのです。大半の現場職員は現場のことしか知らず会社の経営や方針、コスト管理の専門知識などないにも関わらず意思決定に絡んでしまうからです。
なので、普通は成績の良い優秀な人材に権力を集中させることで独裁的ですが効率的な意思決定を行い会社の競争力を高めるのです。その結果、ブラック企業が生まれる可能性もあります。しかし、民主主義ホワイト企業では倒産する可能性もあるのです。どちらが良いとは一概に言えません。
サッカー日本代表をファン投票で選べば人気は出るでしょうが、他国に勝てるのでしょうか。おそらく専門家の監督や協会に任せた方が日本代表は強くなるでしょう。
今の日本は、選挙権を全員が持ちながらも国民全体の意識は低く、それなりの意識を持った人しか投票しないため、憲法改正などの現実的な意思決定が可能な状態なんですね。
最初のギャングースのカズキのセリフに戻れば、「選挙に来る人の半分が思ったことが現実となる」、そして選挙に来る人は高学歴高収入都市圏大企業中年男性が多い。そして彼らの意見が国民の総意となっている状態なのです。
投票率が6割だったから過半数は3割です。3人に一人以下の少数意見でこの国を動かせるわけです。
民主主義に絶対的に正しい意見なんてありません。自分がどんな人間で誰が一番自分に利益をもたらしてくれるのか。
負ければ自分と真逆の奴らに自分の税金が使われる。
まず、そのことに個人としてとにかくシビアになることが民主主義を発達させる最初のステップだと思っています。
どうすればこの国が良くなるのかなんてその次の段階の話でしょう。